映画『アリスとテレスのまぼろし工場』感想と考察など

注意:感想、評、気がついたこと、考えたことを書く。きれいな文章、あるいは論考にはまとめていない。映画の内容を含む。映像美と音楽にはほぼ言及していない。一度見ただけだから内容の誤認もあるだろうが、考慮しない。

 

 

 

 

タイトルについて

・まずタイトルについて書かねばなるまい。アリストテレス哲学とこの映画の関係はあまりよくわからなかった。哲学徒のはしくれとしてそれなりに気合を入れて観たのだが。ただ今書きながら整理されてきたものもあるため、それはこの記事の後半にまとめて書く。

 

 

総評、ストーリー面、テーマ面での評と感想

tips:メインテーマにだけ興味がある人は次の章に飛んで読み進めてもおそらく問題ない。

 

・総評:ストーリーは面白く、音楽や映像もそれをよく引き立てていたと思う。テーマもこんな記事を書きたくなるほどに魅力があり、面白かった。一方、こちらを納得させて着いてこさせる気があまりない映画だと思った。いくらか考えて観ることが要求される映画は好きで、本作もなんだかんだもう一度観たいくらいには気に入っているが、そういうスタイルを維持しつつ、この映画をもう少し親切な作りにすることもできたのではないか? と思う。

 

・ストーリーについて。前半はやんわりとしたディストピア的世界の中で多くの謎が登場、そして明らかになったり進展したり、という調子。後半は主人公らの感情的クライマックスに派手なアクション、主人公の選んだ道の提示といった感じか。

・手に汗握る展開はエンターテイメントとして楽しく、実際手どころか全身に汗をかきながら見ていた。しかしなぜ時が止まったのかという(ストーリー上は)超重大な謎に「解けきった感」がなく、このあたりが不親切感に繋がっている気がする。

・予告編や本編序盤の展開から、佐上睦実と五実は何なのか、なぜ時が止まったのかという点を「解決」していくストーリーは期待されて然るべきだと思う。五実については良かった。が、睦実については「謎」として登場したにもかかわらず、実は正宗にとって謎である以前に好意の対象でもあったというのがちょっと入り込みづらかった。時間の停止についても、祖父の言及は「答え」とは感じられない。

・それでも十分いい映画だったと感じているので、予告編の構成や序盤の伏線の張り方が違ったらもっと良かったんじゃないかと思ってしまった。

 

・テーマについて。時間、変化、恋愛、親子・継承あたりか。少し散らかっていた、つまり重要なテーマが多すぎたような印象。私は時間と変化が一番重要なものだと感じており、親子と継承はそこに自然に付随しているので、恋愛感情だけ、どこか浮いて見えた。恋愛は物語上欠かせないし、最後のシーンでも五実の独白として初めての失恋が語られているため、ここも完全に包括して読み通したいのだが。

・性もテーマと言っていいくらいに意識させられた点だったが、序盤に大量投入された割に中盤以降は出番がなく、テーマっぽくない。またその序盤での描かれ方についてだが、ポップで一般に許容されやすい表現でもなく、かといって露悪的なコメディでもなかったのが良くも悪くも印象的だった。笹倉大輔の言動と、女性的特徴が強調された序盤の五実の描かれ方は少々不快ですらあったが、不快なレベルまでリアル寄りに描かれたことで、性は焦点化されるのではなく背景化され、序盤の展開と湿度に貢献した後は自然に消えていったのだとも言えそうだ。このようにまとめた時、五実の服が脱げそうになった時に正宗が「ストップ―!」みたいなことを言って暗転するカットは、無駄にコミカルで良くなかったと思う。一方、睦実が五実の体を洗う絵を描いて赤面し破るシーンは画としても描写としても良く、秀逸だった。

・最も重要な「変化」については、一応アリストテレス的なものと絡めて整理したいのでもう少し下で書く。

 

 

アリストテレスについて

アリストテレスについて。作中で明示的に関係している部分は、漫画に登場する「エネルゲイア」という単語を正宗の父が面白そうに語るシーン、「希望は目覚めている人間の見る夢である」という「とある哲学者」による言葉。

・前者は言及されていた〈無時間性〉が、言うまでもなく街の状況とリンクしており重要なのだろう。だが、「時間を必要とせず目的(の達成、完成)と行為が一致している状態」はこの映画のテーマとは思えない。しかしわざわざタイトルに含めてしまうくらいだから単なるモチーフで済ませるわけにもいかない。ありえるとすれば、本作のストーリーによって乗り越えられる側だろう。

・これを言ったのが父であることは、後に見つかる日記と関連して重要かもしれない。

・後者(「希望とは云々」)は調べるとアリストテレスの名言として非哲学的なサイトがヒットする。原著を読んでいないが、見たところ哲学的に重要な含意はない、単なるレトリックに近い言葉だと思われる。

・また、暗示的にアリストテレスを想起させられたのは、五実が空に手を伸ばしてひび割れの向こうの現実を「知りたい、もっと知りたい」と叫ぶシーン。「人は誰でも生まれつき知ることを求める」という言葉でアリストテレス形而上学』は始まっているらしい*1

 

 

変化という主題、主人公としての正宗の態度とその対極としてのエネルゲイア

・私が読み取った主題を先に提示する。

変化:「(人は、自分という同一なものがあってそれが時間を経て変化するかのように考えがちだが、)本質的に重要な変化というものはある人間を別の人間にしてしまうものなのであって、今の自分を犠牲にし失う覚悟があって初めて、より良い(と思う)次の自分へ進む、あるいは未来の自分に良いものを贈ることができる。」

時間:「本質的に重要な変化に時間は欠かせない。無時間的な、そこだけで完成されているような(エネルゲイア的)瞬間というものもあるかもしれないが、本質的に重要な変化はそれを上回るだけの価値がある尊いものだから、無時間的な完成に留まろうとしてはいけない。」

親子・継承:「子どもは、二人の人の間に他の材料もなしに産まれるのに、その二人とは全く別の人格として存在する。それゆえ出産は、本質的な変化の象徴的な一形態だ。現状の完成に満足し、それを維持しようとする人から子どもは産まれない。今の自分を捨てることで初めて、自分と繋がった自分ではない者に対して未来を贈ることができる。これこそが、物語の主人公に相応しい尊い態度である。」

 

・変化については、睦実が現実世界の(未来の)自分を徹底的に他人としてみなしていた点が印象的だろう。未来の自分のために努力しても、今の自分がその喜びを得ることはないし、未来にいる人間は、過去に感謝したとしてもその時点の自分にはそれを伝えることができない。その意味では、同じ人の過去未来は、時間によって断絶された他人同士なのである*2

・そして後に、正宗も未来の自分たち夫婦を対象化し、彼らを救いたいと強く願うようになる。今の自分たちの世界を犠牲にしても、未来の自分たちのために良いものを贈ろうとするのである。これこそ、物語の中で主人公だけが成し遂げる変化なのだ。五実を現実世界に送還し救おうと志すもう一つの目標と併せて、主人公的態度と呼びたい。

・その対極にあるのが、無時間的な世界に留まる態度。悪役として、佐上衛にわかりやすく象徴される。彼は未来(=五実)に何も与えず、変化を排除するという形で、現在を可能な限り引き伸ばし、自分の理想通りの世界をつくろうとする。

・「アリスとテレスのまぼろし工場」というタイトルをなんとか解釈するならば、アリストテレスエネルゲイア→佐上衛的態度→時を止めまぼろしを生み出した工場 と繋げるしかないと思う*3

・正宗のしたことには、未来の自分たち夫婦を救うことだけでなく、五実を救うことも含まれ、むしろこちらが主である。ある人が変化するということと、ある人が子どもに未来を遺して死ぬということは相似形であり、後者が前者の特殊例とみなすこともできるが、本作ではこの親子の継承が特に重要なものとして扱われる。

・変化の前の自分と変化の後の自分は、ある意味で別人だが、どちらも「その人」の一部でもある。同様に、子どもというのは独立した人格でありながら、両親の一部という側面も持つ。だからこそ五実は、正宗と睦実の恋愛関係に対し自分が「なかまはずれ」だと訴えるのだ。そして、その未熟さゆえに、そんな一体的な三人のまとまりから自らを分離して現実世界に帰ることを拒否する(=佐上衛的態度)。だからこそ、電車の中で睦実は、「あなたには未来をあげる。でも正宗は私のもの」という言葉を突きつける必要があった。これは睦実が継承を宣言し、五実に本質的な変化を受け入れる(=一緒にいられるまぼろしの世界の自分を殺して未来へと向かう)ことを促す決定的なシーンである。

 

・クライマックスについて書いたが、それ以外についても主人公的態度と佐上衛的態度の対立軸で少し整理したい。

・新田(センター分けの友達)と原のカップルで言えば、原は佐上衛側。新田は正宗の計画を手助けしたが、思想的に正宗に近いというよりも、正宗への信頼とある種のものわかりの良さでそういう行動になった感がある。新田と原が心の底では連帯していないことは告白シーンを見るだけでも明らかで、正宗と睦実とは対照的だ。

・叔父と母は対比的な関係に見えるかもしれないが、滅ぶ無時間的世界でどう生きるかという点で相反しているだけだ。死という代償を払っても変化し未来に遺すことを選ぶ正宗の生き方と比べると、叔父も母も同様に、正宗とは対極の、佐上衛の側にいる。

・この対立軸では、父と祖父は正宗の側にいると言える。

・祖父は電車を動かし、父はいち早く五実の送還を志し、正宗と睦実がそれを成し遂げた。睦実を弾いてしまうが、祖父―父―正宗という一つの系列が展開上重要なのは注目に値する。

・父は、正宗の絵の成長にエネルゲイア的完成を見て取った。それを受けて祖父は、時が止まった理由について、神様も一番良い状態(エネルゲイア?)で止めておきたかったのだろうと示唆、また理解を示した。行動としては政宗的な変化に寄与しつつ、思考の面ではエネルゲイアの無時間的完成にも寄り添うという珍しい共通点が描かれている。

・父は失敗する者として描かれる。日記には、正宗のようにこの世界でも変わっていくことができなかったと吐露されている。そして五実の送還にも失敗する。しかしこの五実の送還は正宗が引き継いで成功させる。父は失敗しつつも、たしかに未来に何かを継承し、変えることに成功しているのである。

・細かいことだが、自分の子どもについて「政宗ができちゃった」という言い方をしていたことからも、彼が変化を主体的に選び取れる人間ではなかったことを示していると言えるかもしれない。

 

 

取り残されたテーマ:恋愛について

・恋愛感情についての印象の強い描写「好きが笑いものにされた」「助手席に乗ったから好き、それは違う」「好きと大嫌いがなぜか近い」「好きは痛い、甘い痛み」「好きは痛いじゃなく『居たい』」は統一的なテーマに包含して捉えることができなかった。

・ただ、恋愛というイベントは変化というテーマに包含されうる。なぜなら、告白という行為はそれ以前とそれ以後を完全に断絶する、つまり現在の関係性を破壊して未来の別の関係性を目指す、不可逆的なものだからである。

・しかし、この物語内の恋愛は結局、無時間的で(本質的な)変化ができないはずのまぼろしの世界でも為されている。これをどう捉えるかはかなり重要そうだが、今は頭の中ではっきりしてこない。

・未来に繋がらない恋愛などまさしくまぼろしだなどと言うのは完全に「やり過ぎ」だと思うのだが、正宗と睦実が激しめのキスシーンで生(現実の側のもの、まぼろしの世界は生を実感できない)を実感したところを見ると、性→生殖→未来という方向への接近に価値が見出されているように読んでしまう。五実を送り届けてからまた生を実感するシーンがあるのも、この推察を補強してしまう。

・ついでのような形でここに書くが、睦実が「お前も結局オスかよ」と叫ぶ印象的なシーンは、当時変なセリフだなと思ったが、今思えば「父親であるにもかかわらず五実にとって恋愛対象となりえてしまうのか」という意味だったのだろう。「女々しい男手を期待していたのに正宗も結局五実に欲情するのか」という意味に聞こえたが、流石にそれでは映画のあの時点で既におかしい。

 

 

締めの雑感

子どもと未来を肯定していくというテーマはこの前も某作品で見たぜという感じだったので、驚きつつ、現代の風潮に対するアンサーめいたものとしてホットトピックになっているのかなと思わされた。もっとも、私の研究分野に反出生主義が含まれているからそういう見方になるのだとは思う。予告編などはどちらかと言うと恋愛感情に焦点が当たっていた気がするので、そちらを主軸に据えて読み解こうとするのが王道なのかもしれない。

改めて振り返るとやはり結構いい映画だった。どうも細かい不快な要素があり、満点という感じではなかったが、それでいてここまで書いて考えてしまうほど魅了された。それも、制作陣の胆力の為せる業かもしれない。不快になりうる要素は丸めようと思えばたぶん丸められるけど、それでも表現したい世界観のために残したのだろうと思うし、結末についてもなかなかだ。正宗と睦実と五実以外みんな本質的に救われていない。正宗の姿勢に誰かが感銘を受けるとか、そういう小手先のフォローで大団円感を出すことだってできただろうに、それをしなかったのがこの作品の完成度を高めていると思う。1時間50分と長くないが、ガツンと来る映画だった。

*1:山口義久アリストテレス入門』,ちくま新書, 2001, p.24。『形而上学』は手元にない

*2:自己同一性を強固なものとみなさず、時間的に隔たっている自分を他人のようにみなすという発想は私がこの映画を見てオリジナルに考えたことではない。ここに書いたような仕方で主張されているわけではないが、 Parfit, Derek, ‘Personal Identity’, The Philosophical Review,
80.1 (1971), 3‒27. に影響を受けている。念の為。

*3:しかし、アリストテレスが佐上衛的態度を哲学的に主張したというわけではない。私がここで書いている解釈はエネルゲイアという単語を使わなくても全体として成立するものである。アリストテレスの哲学とこの映画の関係はそこまで深くないと考えている、ということをここに明記しておく。