告解の虚偽方便2

 本日、彫刻が再開された。久しぶりに重たい鑿で空間を削り出して本日の作業を終える。時間にして20分、実に簡単。何某は宇宙を掘り出すのに6日間かけたらしいが、僕の彫刻は5日間で宇宙をぐるりと一周する。一足先んじる僕の工房では、月曜日にして大空が開けている。

 先日は僕が彫刻をしていることを晒し上げられ非常に困惑した。
 創る者は、何かを追い求めて創るのが正道だろう。しかし日常会話の文脈では、作品を見る前に創る行為そのものが褒めそやされる。これは日常会話が間違っているのではなく、そことは別の文脈に創作行為が生きているのだろう。
 だから僕は、自分の心許すタイミングでしか彫刻の話をしたくない。その相手は必然、鑿を握る同志がほとんどとなる。この人達は、励まし合いこそすれ、過程の無意味な称揚はしないし、逆に成果物たる作品に対しては、拙いものにも妥当に価値を見出す。
 いきなり日常の文脈に放り出された僕の彫像は、そんな事情でたちまち赤面し、文字通り腰を折られ、未完成のまま廃棄されてしまった。こんな事態を避けるために、この活動は一層秘匿にされていくだろう。
 もちろんこの文章は嘘にまみれているから、何を書いても問題ない。練った嘘も赤裸々な嘘もデタラメに過ぎないのだ。

 ところで以前、彫刻とは既に完成形で埋まっている像を鑿で掘り出すものだ、と聞いた。覆い包む無駄を削げば美が現れると偉大な先人が言うのなら、小人たる僕は邪道を突き進んでいる。僕の彫刻は空間を彫り、像に無駄を付け加えていく。天使の魂が閉じ込められた大理石を彫った西の先人に対し、こちらは自由な魂を宿した動物をも材料とする。しかし今はこれで良い。なにしろ、理想形に「逆」という一文字が付いているくらいだから、邪道が王道となるのも当然なのである。捻くれ者らしく、邪道を踏破したのちに正道へ帰ってみせよう。